二本松城は、奥州探題を命じられた畠山満泰が1441〜1444年(嘉吉年間)に築城し、 以後畠山氏歴代の居城として140年余り続き、1586(天正14)年伊達政宗の執拗な攻撃により落城した。 豊臣時代、当城は会津領主となった蒲生氏郷の重要な支城として、中通り(仙道)警備の任を与えられ、 頂上の本丸やその周辺に石垣が積まれ、近世城郭として機能し始めた。 その後、徳川時代初期も会津領として蒲生氏・加藤氏らの支配下にあった。
1643(寛永20)年二本松藩が誕生し、白河藩より丹羽光重が10万700石で入城し、 幕末まで丹羽氏10代の居城として220年余り続いた。 しかし、1868(慶応4)年戊辰戦争に際し、西軍との徹底抗戦で城内・家中屋敷のすべてを焼失し、7月29日に落城した。 このとき守備についていた二本松少年隊が戦死した悲劇は有名である。
二本松城は、麓の居館と標高345mの白旗ヶ峰に築かれた城郭からなる城である。
山頂に本丸が置かれ、本丸から北西・東・南に尾根が延びており、東と南の尾根にそれぞれ曲輪が築かれている。 唯一他の山につながっている北西の尾根は堀切で遮断され、北方の尾根伝いに敵が侵入するのを防ぐ形となっている。
本丸はよく整備・復元されており、野面積みの石垣が残る。