室町時代、磐城地方は豪族達が互いに力を競い争い合っていた。 その中で、岩城隆忠は居城を長友から白土に移し、統一支配を目指して長子親隆と共に一方の雄岩崎氏(島倉城主)を滅ぼした。 さらに親隆は北進して檜葉郡を治めた。
親隆の子常隆は1483(文明15)年磐城・磐前両郡の郡境にあたるこの地に大館城を築き、居城を白土城から移した。 城内には菩提寺として曹洞宗青雲院を、必勝と平和を願って真言宗長命寺を創建した。 1485(文明17)年常隆は常陸国に侵攻し、守護佐竹氏を服従させて常陸の北部を領有した。 次いで常隆の子盛隆は、1510(永正7)年白河郡の領主白川氏を攻略した。 ここに岩城氏は陸奥・下野・常陸の3国に強大な勢力圏を築き、戦国大名の居城として大館城はその中心となった。 1514(永正11)年盛隆、由隆・政隆父子は、陸奥・関東第1の覇者たらんと下野国宇都宮に侵攻したが勝機を逸した。 以後、岩城氏は重隆、親隆、常隆、貞隆と続いた。
岩城氏はまた、神仏を崇拝し、古典籍や和歌・連歌などの文芸を好み、猪苗代兼載や雪村等を招き、当地方の文化の振興に努めた。 しかし、関ヶ原の戦いで徳川方に加担しなかったため、岩城氏は1602(慶長7)年5月徳川家康に所領を没収された。 同年11月に旧岩城領を与えられた鳥居忠政は、大館城の北東、物見ヶ丘に居城を移したため、大館城は廃された。
大館城は、北に好間川、南に新川が位置する独立丘陵上に築かれた城である。
最頂部に広い本丸を配し、それを囲むように北東の麓に向かって雛壇状にやや規模の小さな曲輪が連なる。
登城道の1つと考えられる北側の麓から山頂に続く道は、左右を土塁に囲まれ複雑に折れ曲がった道となっている。
ある書籍に「大館城は市道と磐越東線の建設で分断された」と解説されていたので、 前回行かなかった市道を挟んで東側の丘を訪れてみた。
しかし残念ながら土塁?のようなものを見かけたのみで、遺構らしいものは特になかった。
折角なので碑が建っている西側の丘を訪れると、昨日の地震によって倒れている碑が見られた。
現在の住まいから最も近い城であり、徒歩で行ける距離にあるため散歩気分で訪れてみた。
ほとんど何も残ってないかと思っていたが、斜面に連なる曲輪や登城道と思しき道を確認できて満足できた。