戦国時代、棚倉地方は伊達氏・佐竹氏と白川の結城氏などの攻防が続き、最後は佐竹氏が支配することとなった。
徳川家康が天下統一すると佐竹氏は秋田に移され、北九州の立花氏が初代棚倉藩主となる。
丹羽長重は、関ヶ原の戦いで西軍に属したため改易となったが、1603(慶長8)年常陸古渡で1万石の大名に復帰、 1619(元和5)年に常陸江戸崎で2万石、1622(元和8)年には棚倉5万石の大名となる。
1625(寛永2)年幕府の命により、長重はこの地にあった近津明神を馬場に移して棚倉城を築いた。
棚倉城は関東と東北の境目にあることから、親藩・譜代の大名が続いたが、 1868(慶応4)年戊辰戦争によって城下の一部と共に焼失した。
棚倉城は、久慈川右岸段丘上に築かれた城である。
本丸は西向きに凸形を呈し、本丸を取り巻く二の丸が長方形を呈している。 北西に三の丸があり、林曲輪とも呼ばれていた。
土造りの城であり、二の丸西側にのみ石垣が用いられていた。
私が見た所内堀以内の遺構しか確認できなかったが、三の丸土塁も一部残っているらしい。
比較的小規模な城であるが、内堀が20〜30mもあり見応えがある。