守山城は、13世紀頃(鎌倉時代)田村地方を領した藤原姓田村氏が築いたとされる。
その後、平姓田村氏が同地を支配し、守山城を居城とした。 1504(永正元)年田村義顕が三春城へ居城を移すと、支城として家臣が配された。
1586(天正14)年田村清顕が急死すると、1588(天正16)年縁戚関係にあった伊達政宗が実質的に田村領を支配した。
しかし1591(天正19)年、政宗は葛西・大崎一揆扇動の疑いにより減封、旧田村領は蒲生氏郷に与えられた。 氏郷は姉婿である田丸具直を守山城に配した。 この時、石垣が築かれたと考えられている。
1598(慶長3)年蒲生氏に替わって上杉景勝が会津一円の領主になると、家臣の本庄繁長が城主となった。
1600(慶長5)年再び会津が蒲生氏の領地となると、家臣の蒲生郷成が城主となった。
そして1615(元和元)年一国一城令により廃城となった。
守山城は、東に黒石川を見下ろす比高約15mの河岸段丘上に築かれた梯郭式平山城である。
城は東西約250m、南北約330mに及び、東端の最頂部に本丸を置き、西に二の丸、三の丸が続く。
二の丸と三の丸の間は堀で遮断されており、二の丸側には石垣が築かれている。
二の丸と三の丸の間の堀は南側半分が残っており、立派な石垣が見られる。 また、本丸・二の丸の周囲は急勾配になっており、堅城さを窺い知ることができる。
守山城にたどり着くまでに案内板が1つも無かったのだが、城内に小学校があるため治安を意識してのことだろうか…
立派な遺構が残っているのだから是非道案内板も設置して欲しいと思う。