宮森城は1396(応永3)年、奥州管領に任命された宇都宮氏広によって築かれた。 当時、宮森城は四本松城と呼ばれていた。
1400(応永7)年、宇都宮氏は斯波詮持・石橋棟義に敗れ去った。
その後、1471(文明3)年石橋氏の重臣大河内修理がこの城を修築し、宮森城と称した。
1569(永禄12)年大河内氏は小浜城主大内義綱や百目木城主石川有信等に攻め滅ぼされ、 宮森城を含む塩松地方は大内氏の支配下となった。
1585(天正13)年8月伊達政宗が塩松へ侵攻し、小手森城を陥落させ、籠城していた約800人を撫で斬りにした。 これを聞いた義綱の子・定綱は、同年9月小浜・宮森両城を放棄して逃亡、小浜城には政宗、宮森城には政宗の父・輝宗が入った。
同年10月定綱の縁戚関係にあった二本松城主畠山義継は政宗に降伏した。 政宗は義継の領地を大幅に削減するつもりであったが、輝宗の仲介によって多少緩和された。 しかし同月8日、仲介の礼を言うために宮森城を訪れた義継は輝宗を拉致して逃亡、粟ノ須で政宗に追いつかれ、輝宗もろとも射殺された。
翌1586(天正14)年、政宗の命により重臣白石宗実が宮森城に配された。
1591(天正19)年、政宗が葛西・大崎一揆扇動の疑いにより移封されると、塩松地方は蒲生氏の所領となった。
その後江戸時代の1643(寛永20)年には丹羽氏の支配下となり、やがて廃城となった。
宮森城は、小浜川の東に位置する比高約60mの丘陵上に築かれた平山城である。
城の東・西・北は急崖となっており、丘陵北側の最高所に本丸を置き、南に向かって幾つもの郭を配していた。
藪と化している部分が多く、楽に見て回れる場所はあまりない。
城の北側は急勾配になっており、勾配が緩い南側に郭を多く配して守りを固めていることがよくわかった。