肥後菊池氏は、南北朝争乱期に南朝方につき、後亀山天皇の命を受けて奥州に入った。
そして14〜15世紀(室町時代前期)に小手森に領地を得て、15世紀後半(室町時代中期)に小手森城を築いた。 1585(天正13)年大内定綱が伊達政宗と敵対すると、小手森城主菊池顕綱は縁戚関係にある大内氏についた。 同年8月小手森城は政宗の攻撃を受け、菊池氏は城の明け渡しを申し出た。 しかし政宗は申し出を拒否して総攻撃を開始、籠城していた約800人を撫で斬りにした。 戦いの後、小手森城は大内氏攻めの功により石川光昌に与えられた。 しかし1588(天正16)年、光昌は政宗の重臣白石宗実の与力に命じられたことに不満を持ち、相馬氏に内通した。 このため政宗に攻められて小手森城は再び落城、約500人が討ち取られた。 この後、城は廃城となった。 |
小手森城は、針道川の東に位置する比高約110mの丘陵に築かれた山城である。 城域は東西約500m、南北約500mであり、山頂部に詰め丸として小規模な郭を置き、 山麓から山腹にかけて城の大部分を成す郭群が配されていた。 |
山腹から山頂にかけては急な斜面となっており、ほとんど郭が存在しない。
また、山頂の詰め丸は要害だが郭も非常に狭く、水の手も無さそうである。 あまり籠城向きな城ではないように感じられた。 |