長沼城は、14世紀(南北朝時代)、長沼氏によって築かれたと伝えられる。
16世紀(戦国時代)に入ると、交通の要衝に位置していた長沼城は、群雄による争奪戦が幾度も繰り返された。
1565(永禄8)年、蘆名盛氏が長沼城を攻撃。 二階堂盛義はよく守ったが、翌1566(永禄9)年に降伏し、長沼城を割譲。 盛氏はその家臣・新国貞通を守将として入れた。
1589(天正17)年、伊達政宗が蘆名氏を滅ぼすと、貞通は政宗に服属した。
1590(天正18)年、豊臣秀吉の奥州仕置によって会津には蒲生氏郷が入り、その家臣・蒲生郷安が長沼城の守将となった。
1598(慶長3)年、上杉景勝が会津へ移封されると、その家臣・島津忠直が守将となった。
1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いで景勝が敗れると、長沼城は再び蒲生氏領となるが、1615(元和元)年に一国一城令で廃城となった。
長沼城は、江花川と簀ノ子川の合流点に向かって突き出した比高約40mの舌状台地に築かれた城である。
最高所に本丸、その周囲に階段状に曲輪を配し、本丸・二の丸など一部には石垣が築かれている。
3方は急斜面に囲まれており、残る1方である尾根続きの西側は堀切で遮断している。
石垣が残っていると聞いて楽しみにしていたのだが、発見してみるとどうやら神社の石垣っぽい。
ちょうど神社の真裏にあるのでそうとしか思えない…
がっくり…orz
と思っていたら、二の丸で遺構らしき石垣を発見!
なかなか立派な打込接ぎの石垣である。
うむ、まんぞくまんぞく♪