811(弘仁2)年、文室綿麻呂は頻繁に水害を被る志波城を移転したい旨を奏上した。 朝廷はこれを許可し、812(弘仁3)年頃、文室綿麻呂は志波城を解体して、その南方約10kmの地点に志波城の資材を用いて徳丹城を築いた。
その後、朝廷が蝦夷強硬策を転換していく中で、815(弘仁6)年5百人の鎮兵が廃止され、そして9世紀中頃(平安時代初期)には廃城となった。
徳丹城は、北上川右岸に築かれた城である。
城は350m四方の外郭とその中心に位置する80m四方の政庁から成っており、志波城と比較すると大幅に規模が縮小されている。
外郭は北側のみ版築土塁とし、他の3方は柵木列であった。 版築土塁、柵木列の外郭線上には70m間隔で櫓が建てられ、各辺の中央には門が設けられていた。
政庁は四方を柵木列で囲み、各辺の中央に門が造られていた。
志波城から高水寺城へ車で向かっていると、途中で徳丹城跡という看板を見かけたので寄ってみた。
遺構は外郭線の西側、政庁跡がわかる程度で門や櫓、柵木列等は復元されていない。
志波城と比較すると徳丹城の小ささが際立つ。 朝廷は余程お金がなかったのだろう。