高水寺城は、1335(建武2)年、足利尊氏が足利一門である斯波家長を奥州管領として下向させ、北朝方の勢力拡大を図ったことに始まるといわれる。
斯波氏は紫波66郷を支配し、さらに16世紀前半(戦国時代前期)詮高の代には岩手郡滴石の戸沢氏を攻略して勢力を拡大している。 この頃斯波氏は隆盛を極め、高水寺の詮高、滴石の2男・詮貞、そして猪去の3男・詮義を合わせて三御所と称される程であった。
しかし詮高の3代後に当たる詮直は遊興に耽って政を蔑ろにしたため、家臣の離反が相次ぎ、斯波氏は急速に衰退していった。 そして1588(天正16)年、南部信直に居城・高水寺城を攻められて落城、斯波氏は滅びた。
信直は高水寺城を郡山城と改め、斯波氏の旧臣・中野康実を城代とし、以後郡山は郡治の中心として栄えた。 17世紀初頭(江戸時代初期)の盛岡城築城に際しては、十数年間南部利直の居城となった。
1667(寛文7)年、郡山城は廃城となった。
高水寺城は、北上川と岩崎川の合流点に位置する標高約180mの城山に築かれた城である。
規模は東西約500m、南北約750mであり、山頂に本丸を置き、その周囲に幾重にも曲輪を雛壇状に構えている。
東は北上川が天然の堀として利用され、陸地続きの西には2重、3重の堀を設けて防御を固めている。
車で山頂まで登って、本丸・姫御殿・若殿屋敷等、山頂周囲を散策した。
3段、4段、5段…、とひたすら階段状に曲輪が連続して設けられており、堅固な城っ!という印象であった。 しかし、階段状の曲輪があるだけで、ほとんど技巧的な遺構は見られず、正直疲れるばかりであまり楽しめなかった。
後で知ったのだが、西側の山麓・中腹あたりには堀が見られるらしいので、また訪れる機会があれば見てみたい。