花巻城の地は前九年の役の折、安倍頼時の城柵であったと伝えられる。
16世紀(戦国時代)にはこの地は稗貫氏の領有となり、鳥谷ヶ崎城が築かれていた。 1558〜1570年(永禄年間)に稗貫氏は居城を鳥谷ヶ崎城に移したとされる。
しかし1590(天正18)年、稗貫氏は小田原征伐に参陣しなかったため、豊臣秀吉の命により改易となった。 同年、稗貫氏は同じく改易された和賀氏と共に反乱を起こし、鳥谷ヶ崎城を奪還するが、 翌1591(天正19)年秀吉の命で派遣された軍勢によって程なく鎮圧された。
同年、稗貫氏・和賀氏の旧領は南部信直に与えられ、信直は鳥谷ヶ崎城を花巻城と改め、家臣・北秀愛を城代とした。 1598(慶長3)年に秀愛が病死すると、その父・信愛が城代を継承した。
1600(慶長5)年、南部利直が山形の最上氏援護のため出陣中の隙を狙って和賀氏残党が一揆を起こした。 花巻城は約5百の軍勢に攻められたが、信愛がわずか十数名を率いて籠城し、援軍の到着まで見事守り通したという。
1613(慶長18)年信愛が死去すると花巻は藩に接収され、藩主・利直の次男・政直が2万石を与えられて花巻城に入った。 しかし1624(寛永元)年、政直は伊達氏との内通を疑われた岩崎城主・柏山明助と共に利直によって花巻城で毒殺されてしまう。
以後、花巻城には城代が置かれ、明治維新を迎えると廃城になった。
花巻城は、北上川に流入する瀬川右岸に位置する比高約20mの丘陵上に築かれた城である。
規模は東西約560m、南北約470mであり、瀬川の断崖を背にして本丸を置き、その南に二の丸・三の丸を順に配した連郭式となっている。
車で12時頃に花巻市役所に到着すると、突然「一発どうですか?」と声を掛けられた。 何だろう?と辺りを見回してみると、「平和の鐘を鳴らそう」というUNESCOの企画のようであった。 早速お言葉に甘えさせてもらい、幸運なことに時鐘を撞くことができた。
花巻城の見所は時鐘、円城寺門、本丸濠、本丸西御門であり、案内板も充実していて見学しやすかった。