802(延暦21)年、胆沢城は坂上田村麻呂によって蝦夷支配の拠点として築かれた。 9世紀初頭(平安時代初期)に多賀城から鎮守府が移され、胆沢城は東北経営の中心地となった。 しかし程なく朝廷が蝦夷強硬策の転換を図ったため、9世紀後半(平安時代前期)には形骸化し、廃れていった。 |
胆沢城は、胆沢川と北上川の合流点に築かれた城である。 城は約670m四方の外郭とその中心よりやや南に位置する約90m四方の政庁から成る。 外郭は周囲を高さ約5mの版築土塁と濠に囲まれており、土塁上には一定間隔で櫓が建てられていた。 また、各辺の中央には門が設けられていた。 政庁は周囲を版築土塁に囲まれていたが、東側の一部は湿地に掛かっていたため柵木列になっていた。 また、各辺の中央には外郭と同じく門が設けられていた。 東北地方の他の城柵とは異なり、政庁南門と外郭南門の間に殿門という第3の門があった。 これは鎮守府胆沢城の威厳を示すために設けられたと考えられる。 |
予定にはなかったが、花巻城から柳之御所に行く途中で胆沢城近辺を通ったのでついでに寄ってみた。 遺構はほとんどなく、政庁、殿門の位置が土盛で表示されている位であった。 外郭南門は現在発掘調査中のようであった。 奥州市埋蔵文化財調査センターには時間がなくて寄れなかったので、またの機会に訪れたい。 |