涌谷城は、1431(永享3)年頃大崎氏一族である涌谷氏が居館を構えたのが始まりと伝えられる。 1590(天正18)年、大崎氏は豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため領地を没収され滅亡、このとき涌谷氏も共に滅びた。 同年に発生した葛西大崎一揆を経て、両氏旧領は伊達氏の領土となり、重臣亘理重宗が涌谷城に入城した。 その後、1606(慶長11)年亘理氏は伊達姓を名乗ることを許され、 涌谷城は江戸時代を通して涌谷伊達氏(亘理氏)2万石の居城として栄えた。 |
涌谷城は、箟岳山裾部から舌状に伸びる小丘陵上に築かれた平山城である。 城域は南北に細長く、東に深い谷、西に江合川が位置する天険の要害となっている。 城は南側の二の丸、1段高い位置にある北側の本丸で構成され、 箟岳山に続く北端を空堀、平地に続く南端を水堀で防御していた。 江戸時代は一国一城令が施行されていたため「涌谷城」ではなく、「涌谷要害」と呼ばれていた。 |
太鼓堂(隅櫓)とその土台である石垣が現存している。 太鼓堂の屋根に載っている鯱は可愛らしく、また石垣はすごく外側に反り返っており、 珍しいものが見られて面白かった。 |