平泉藤原氏を滅ぼした源頼朝は、1190(建久元)年、重臣伊沢将監家景を陸奥国留守職に任じた。
同年、多賀国府に着任した家景は岩切城を築いて居城とし、留守氏を名乗ったといわれる。 しかし、13世紀頃(鎌倉時代)に高森山のような高所に城を構えたとは考えにくいため、 岩切城が築かれたのは14世紀中頃(南北朝時代初期)と推定される。
1346(貞和2)年、足利尊氏は奥州管領として吉良貞家、畠山国氏を多賀国府に下向させたが、 足利家内部で尊氏、直義兄弟の対立が激化すると、両者も2派に分かれて対立するようになる。
留守氏は尊氏側の畠山氏につくが、岩切城合戦に敗れ、没落した。
1400(応永7)年以降に大崎氏が奥州探題を世襲するようになると、留守氏は大崎氏に忠誠を誓い、 その勢力を利用して自己の勢力回復を図った。
しかし、伊達氏の勢力が北上してくると、大崎氏と伊達氏の勢力に挟まれる形となり、 留守家内部は大崎派と伊達派に分かれて抗争を繰り返すようになる。 その結果、伊達派が勝利を収め、15世紀(室町時代前半)には伊達氏の被官となり、伊達氏からの入嗣を受け入れることになる。
こうして伊達氏の家臣となった留守氏はそれを後楯として勢力を回復していった。
1570〜1573年(元亀年間)、留守政景が岩切城から利府城に居城を移すと、岩切城は廃城となった。
その後、留守氏は1590(天正18)年豊臣秀吉に小田原不参陣を咎められ所領を没収され、 江戸時代には仙台藩一門の水沢伊達氏として1万6千石を領した。
岩切城は、南に七北田川が流れる比高約90mの高森山に築かれた城である。
城域は東西約380m、南北約230mであり、南北に延びる3つの尾根が東西に連なる形で構成される。
各尾根間には深い谷が入り込み、周囲は断崖となっている。
最も高い中央の尾根を城の中心とし、多くの郭を配し、要所を堀切・空堀で分断している。
多くの郭・堀切・土橋などが良好な状態で残っている。
人工的なものではないが、谷が深く入り込んで形成された断崖には驚かされた。
整備もされており、非常に見学しやすい。