結城城は、1177〜1180年(治承年間)に結城朝光が築いたとされる。 その後、結城家は室町時代に関東8家の1つに列して勢力を奮い、戦国時代には宇都宮・佐竹氏らと伍して生き残り、 1591(天正19)年徳川家康の次男秀康を17代晴朝の養子にもらい受け、1601(慶長6)年越前福井への国替えまで関東の雄として栄えた。 結城氏の転出後、結城城は廃城となったが、1700(元禄13)年水野勝長(1万8千石)の入部によって再興され、 明治に到るまで水野氏の居城となった。 結城の名を不朽にしたのは1440(永享12)年の結城合戦である。 関東公方足利持氏が将軍義教と争って滅ぶと結城氏11代氏朝(1402〜1441年)は、持氏の遺児春王丸と安王丸を奉じて兵を挙げた。 幕府は諸将に氏朝らの討伐を命じたが、結城落城まで1年余の歳月を費やし、結城の名を天下に轟かす結果となったのである。 |
結城城は、鬼怒川と田川によって形成された低地に突き出た台地を利用して築かれた城である。 城の周囲は沼や深田で取り囲まれた上、さらにその北側から東側にかけて田川が流れるなど、 平城でありながら天然の要害となっていた。 城は、実城・館・中城・西館・東館と呼ばれた5つの大きな曲輪と付属的な曲輪から構成されていた。 これらの曲輪は内堀によって区切られていた。 城全体をほぼ南北と東西に分ける内堀は、深さ6〜7m、幅20〜25mに及ぶもので、台地上で水は出ないため空堀であった。 これら曲輪と曲輪を結ぶため、内堀には土橋や木橋が掛かっていた。 |
城は現在も田に囲まれており、攻めにくさが偲ばれる。 |