小田城は、12世紀末に八田知家によって築かれたといわれる。
知家は常陸国の守護となり、1193(建久4)年には多気氏を失脚させ、常陸国南部に勢力を広めた。
4代時知に至り小田氏を名乗るようになる。
鎌倉幕府が滅びると7代治久は新政府に参加し、南朝に味方した。
治久は1338(延元3)年に北畠親房を迎え、小田城は関東地方の南朝方の一大拠点となる。
このとき親房が「神皇正統記」を著したことは有名である。
しかし1341(興国2)年北朝方の高師冬に攻められて降伏、以後北朝方に従った。 戦国時代になると、小田氏は佐竹氏、結城氏等に攻められ、小田城の激しい争奪戦が続いた。 1569(永禄12)年、15代氏治が手這坂の戦いに敗れると小田城は佐竹氏の領有となり、梶原政景が城主になった。 政景によって小田城は大規模に改修されるが、1602(慶長7)年に佐竹氏が徳川家康の命によって秋田へ国替となり、廃城になった。 |
小田城は、筑波山系の宝篋山南西麓に位置する輪郭式平城である。 本丸を中心に各郭が取り囲むように配され、3重の堀と土塁で囲まれている。 重要な出入口には馬出を設けて、直接進入できないようになっている。 堀で隔てられた各郭は橋で連絡されていた。 |
つくばりんりんロードが小田城を縦断しているが、郭や堀跡がはっきりと確認できる。 多くの郭は草が生い茂っており、歩きにくい。 |