河村城は、12世紀頃(平安時代末期)に秀郷流藤原氏の一族である波多野遠義の次男・河村秀高によって築かれたと伝えられる。 しかし、それはこの地に山城が築かれたのではなく、河村郷に居を構えて本拠地としたものと考えられる。
秀高の子・義秀は、源平の争乱の際に平氏方に属したため、幕府によって所領を一時没収されるが、 1190(建久元)年、義秀は鎌倉での流鏑馬において源頼朝に技量を認められて、本領河村郷に復帰を許された。
1352(正平7)年、南朝方に属した河村氏は新田義興・脇屋義治の軍勢4千余騎と共に河村城に立て籠もり、 畠山国清を主将とする足利尊氏の軍勢と足かけ2年にわたる攻防戦を繰り広げた。 しかし翌1353(正平8)年、南朝方は南原の戦いで惨敗し、河村秀国・秀経を始め、一族のほとんどが討死を遂げた。
その後、河村城は畠山国清、関東管領・上杉憲実を経て大森氏の支配下に入ったと考えられ、 15世紀末頃(戦国時代初期)には相模に進出してきた後北条氏の支配下となった。
以後、河村城は武田氏との攻防から小田原城の支城として重要視され、1570〜1573年(元亀年間)には補強が行われている。
1590(天正18)年、豊臣秀吉の小田原征伐によって落城し、廃城となったと考えられる。
河村城は、南に酒匂川が流れる比高約110mの城山に築かれた城である。
規模は東西約600m、南北約350mに及び、本城郭を中心として東、北、西の3方に延びる尾根上に多数の郭を配している。
東の尾根上には蔵郭・近藤郭・大庭郭、北の尾根上には小郭・茶臼郭、そして西の尾根上には馬出郭・西郭・北郭等があり、それぞれ堀切で分断されている。
中でも本城郭と小郭、小郭と茶臼郭間の堀切は畝堀であることが確認されている。
本城郭とその北側に延びる尾根は綺麗に整備されており、立派な畝堀を見ることができた。
しかし、東側の尾根は近藤郭以東が未整備であり、判然としない。 今後の整備に期待したい。