佐倉城は、千葉氏一族の鹿島幹胤が1532〜1555年(天文年間)に築いた鹿島城に始まると伝えられる。 千葉氏没落後、1610(慶長15)年に土井利勝が佐倉に入封し、翌1611(慶長16)年から1616(元和2)年にかけて鹿島城跡に佐倉城を築いた。 以後、江戸東方の守りの要として石川・松平・堀田・松平・大久保・戸田・稲葉・松平・堀田と譜代大名が封じられた。 歴代城主の多くが老中など幕府の要職に就任しているが、中でも幕末期の藩主堀田正睦は日本を開国に導いた開明的な老中として著名である。 |
佐倉城は、西の鹿島川と南の高崎川との合流点に位置する標高約30mの台地を利用して築かれた城である。 西より本丸、二の丸、三の丸と配置し、それぞれ空堀と土塁によって区画されている。 麓の低地には出丸を配し、三十間堀等の幅の広い水堀を持っていた。 石材の乏しい土地柄から石垣を用いない総土塁造りの城であり、総面積は約87haに及んだ。 本丸の土塁上には天守、銅櫓、角櫓があり、天守は3重4階で北西側の半分が土塁に掛けられるようにして建てられていたが、 1813(文化10)年に焼失し以後再建されることはなかった。 銅櫓は2階建て、銅瓦葺で本丸内部には御殿建築があった。 本丸は一の門、台所門によって二の丸と通じ、二の丸には対面所等があった。 城主は徳川家康が腰を掛けた本丸を憚って、この対面所に居住していたと伝えられている。 三の丸には米蔵や上級家臣の武家屋敷が置かれ、東側は三の門から広小路を通って大手門に至る。 この間には藩政の中心であった三の丸御殿(松山御殿)や上級家臣の武家屋敷が配されていた。 三の丸北側は椎木門と馬出が設けられ、椎木曲輪へ繋がっていた。 椎木曲輪には武家屋敷が配され、椎木曲輪の北側直下の水堀に面して田町門があり、西方には鹿島橋の門があった。 |
椎木門前の角馬出が良く整備され、良好な状態で残っている。
また、堀や土塁など多くの遺構が見られる。 |