1114(永久2)年、千葉常兼の子・常康が臼井に居を築き臼井氏を称したと伝えられる。 そして14世紀中頃、臼井氏中興の祖・興胤が城としての基礎を築いたと言われている。
1479(文明11)年、関東管領上杉氏と古河公方の抗争の際、上杉氏方の太田道灌に攻められて落城した。 しかし、臼井氏はほどなく臼井城に復帰している。
1561(永禄4)年、臼井久胤は上杉謙信の小田原攻めに呼応した里見氏の重臣正木氏に攻められて落城、 臼井氏は滅亡した。 1564(永禄7)年、第2次国府台合戦で里見氏が後北条氏に敗れ衰退すると、千葉氏の重臣原胤貞が臼井城を奪回した。
1566(永禄9)年には上杉謙信、里見義堯・義弘父子等に攻められているが、後北条氏の援軍もあって辛うじて落城を免れている。
1574(天正2)年、胤貞の子・胤栄は里見氏に生実城を追われたため、以後臼井城が原氏の本拠となった。
1590(天正18)年、小田原の役で原氏は後北条氏方に加担したため没落、替わって徳川家康の家臣酒井家次が臼井城に入った。 その後家次の移封に伴い、1604(慶長9)年に廃城となった。
臼井城は、印旛沼南岸に接する標高約27mの丘陵に築かれた城である。
城は東西約400m、南北約1000mに及び、一郭・二郭・三郭・御屋敷・江間を中心に構成される。 印旛沼を背にした丘陵東端に一郭を置き、その北に江間、西に二郭、南に御屋敷を配し、 さらにそれらの西側を包み込むように三郭を配していた。
一郭・二郭を取り巻く堀が非常に良好な状態で残っている。
また、一郭の土塁や二郭南西の櫓台らしきものも確認できた。