土気城は、8世紀前半(奈良時代前半)頃、鎮守府将軍・大野東人が蝦夷に対する軍事拠点の1つとして築いた貴船城が起源といわれる。 15世紀後半(戦国時代初期)には畠山重康の居城となっていたが、1487(長享元)年中野城主・酒井定隆が重康を追い、 翌1488(長享2)年定隆は本拠を土気城に移した。 16世紀初期(永正年間)頃足利義明が小弓公方を名乗ると、酒井氏はこれに属し里見氏等と共に反北条氏であった。 しかし1538(天文7)年第1次国府台合戦で義明が討ち滅ぼされると、その後は状況に応じて北条氏や里見氏の間で離合を繰り返した。 1575(天正3)年、北条氏政に攻められ酒井氏は降伏、以後北条氏の配下として組み込まれた。 1590(天正18)年、小田原合戦で北条氏側についた酒井氏は北条氏と共に滅び、土気城は廃城となった。 |
土気城は、標高約90mの土気台地東端に築かれた平山城である。 規模は東西約500m、南北約400mであり、北・東・南は急峻、西はほぼ平坦な地形となっていた。 北から南に向かって本丸、二の丸、三の丸が配され、各郭が堀によって仕切られた連郭式であった。 |
土塁や堀が崩されたり埋められたりしているようだが、二の丸と三の丸間の堀や三の丸南側の堀等が良く残っている。 だいたいの場所だけ把握して訪れたが、2時間半もさまよい歩いてやっとたどり着いた。 入念に道を調べて訪れることをお勧めする。 日本航空研修センターは「ひまわりの郷」という高齢者専用賃貸住宅になっていた。 あまり人の気配は感じなかったが… |