馬加城は、1180(治承4)年、千葉常胤の4男・胤信が大須賀庄に所領を分与され、 そこに居城を構えたことに始まるという。 しかし胤信は父・常胤の遺命により埴生郡に移ったので、馬加城は千葉氏宗家の管理下となった。
15世紀中頃(室町時代)には、千葉満胤の次男・馬加康胤が馬加城を居城としていた。
この頃、関東公方・足利氏と関東管領・上杉氏の争いが激化し、関東一円を巻き込んだ戦いが繰り広げられていた。 関東管領派であった康胤は関東公方派であった甥・千葉胤直に不満を募らせ、 1455(享徳4)年、千葉氏重臣・原胤房と共に千葉氏宗家の居城・千葉城を急襲した。 康胤は千葉城を落として千葉氏宗家を滅亡に追い込み、その家督を乗っ取った。
しかし同年、8代将軍・足利義政に逆臣・康胤討伐を命じられた東常縁が軍勢を率いて下総に下向、 馬加城は落とされ、さらに翌1456(康正2)年には千葉城も陥落し、康胤は自刃した。
その後、千葉氏宗家は康胤の子・輔胤が継承し、馬加氏系千葉氏が宗家として続いた。
馬加城は、浜田川と花見川に挟まれた標高約20mの台地西端部に築かれた城である。
現在、京葉道路やマンションの建設によって大きく改変を受け、遺構はほとんど残っていない。
場所をカーナビに入力し、その案内に従って進んで行くと、気が付けば目の前には大きなマンションがあった。
事前に他の方々のホームページを覗き、遺構はほとんど何もないことがわかっていたので足早にマンションを後にした。