1521(大永元)年、真里谷武田氏は里見氏の夷隅郡侵攻に備え、同地方に防御網を敷いた。
この時、武田信清によって勝浦城の原型となる砦が築かれたという。 1544(天文13)年、里見氏の家臣・正木時茂によって夷隅郡が攻略され、勝浦城はその弟・時忠に与えられた。 時忠は勝浦城を大改修し、2代時通、3代頼忠と続いた。 しかし1590(天正18)年の小田原征伐の際、里見氏は豊臣秀吉の怒りを買い、上総国を没収された。 これに伴い、正木氏は勝浦城を捨てて安房国に逃れたため、勝浦城は廃城となった。 なお、1577(天正5)年には正木頼忠の娘として「於萬の方」がこの地で誕生している。 後に於萬の方は徳川家康に見初められて側室となり、紀伊徳川頼宣、水戸徳川頼房を生んでいる。 |
勝浦城は、勝浦湾の東に位置する八幡岬突端部に築かれた城である。 海抜約40mであり、北を除く3方を断崖絶壁に囲まれている。 唯一の陸続きである北には堀切を設けた要害堅固な城であった。 |
本日はサイクリングの目的地として勝浦城のある八幡岬に立ち寄った。
特に城に来たつもりは無かったのだが、眺めが良いらしいという事で八幡岬に立ち寄ったら、そこが城だったのである。 勝浦城には「於萬の布さらし」という伝承があり、内容は落城時に八幡岬の断崖から布を垂らして海に降りたというものである。 「ほんまかいな?」という感じだが、ここにはこの伝承の説明板が立っており、その横には「於萬の方」の像があった。 |