桜洞城は、1504〜1521年(永正年間)、三木氏4代直頼によって飛騨南部支配の拠点として築かれた城である。 もともと三木氏は飛騨守護・京極氏の代官であったが、 主家の内紛に乗じて勢力を拡大し、遂には主家からの独立を果たした。 4代直頼は桜洞城を拠点として周囲の豪族を討ち従え、 また孫娘を嫁がせて一族に引き入れるなど剛柔さまざまな策で勢力を拡大し、三木氏は飛騨半国を領するまでに成長した。 以後、桜洞城は6代自綱が1579(天正7)年に松倉城を築いて移るまで三木氏の居城となった。 自綱が松倉城に移ってからはその子・信綱が桜洞城に入ったが、同年「信綱に謀反の疑いあり」として松倉城に呼び出され殺害された。 以後の城主は不明であるが、1585(天正13)年羽柴秀吉の命を受けた金森長近が飛騨へ侵攻した折、桜洞城も落城して三木氏は滅亡した。 翌1586(天正14)年、飛騨1国を与えられた長近によって桜洞城は廃城とされた。 |
桜洞城は、飛騨川左岸に位置する台地先端部に築かれた城である。 規模は東西約140m、南北約120mであり、台地上に複数の曲輪を配し、それぞれに土塁や空堀を設けていた。 また、要所には石垣が築かれていたようである。 |
遺構は圃場整備によってほとんど消滅しており、「えっ、これだけ!?」という印象であった。 一部の土塁や堀ははっきりと残っているが、石垣は「これのことだよね?」といった具合の残存状況であった。 余談だが、桜洞城址碑を探すのに1時間以上も掛かってしまい、非常に疲れた。 ちなみに城址碑は台地先端部(土塁や堀が残っている所)にある。 私はこれを見落としていたため、台地のあちらこちらを歩きまわることになった… |