大垣城は、1535(天文4)年、美濃守護土岐氏の一族・宮川安定によって築かれたという。
斎藤道三が下剋上により美濃国を略取すると、1559(永禄2)年には西美濃三人衆として著名な氏家卜全が入城した。 卜全は城域を拡張し、さらに櫓及び総囲いの築造を行ったという。
織田信長により斎藤氏が滅ぼされた後も氏家氏は所領を安堵され、信長に従って各地を転戦した。
1582(天正10)年、本能寺の変にて信長が横死すると氏家氏に替わって池田恒興が大垣城に入り、 その後は羽柴秀次・一柳直末など羽柴秀吉の一族・家臣が城主となった。
1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いにおいては城主・伊東盛宗が石田三成を大垣城に迎え入れたため、西軍の本拠として使用された。
戦後は徳川譜代の大名が城主となり、1635(寛永12)年に戸田氏鉄が10万石で入城して以後は幕末まで大垣藩戸田氏が続いた。
大垣城は、西に杭瀬川、東に揖斐川が流れる西美濃平野中央部に築かれた城である。
城は本丸・二の丸を中心に置き、その周囲を三の丸・竹の丸・天神丸などが取り巻く輪郭式である。
本丸には4層4階の天守がそびえていた。 当時「4層」は「死相」に繋がると言われ忌み嫌われていたため、珍しいものであった。
本丸のみ残っており、天守や櫓、門などが復元されている。
東門のみ現存門のようであるが、釘が飛び出したり(いたずらか?)しており残念であった。 もう少し丁寧に扱っても良いのではないだろうか?
天守内は資料館になっており、関ヶ原合戦についての解説ビデオが設置されていてなかなか面白かった。