高遠は古くから諏訪氏の勢力圏にあって、南北朝の頃よりその支族である高遠氏が一円を治めていた。
しかし、ここが諏訪から伊那へ抜ける交通の要衝であり、南信濃から駿河や遠江に進出するための重要な地点であったことから、
1545(天文14)年に武田信玄の侵略に遭い、その旗下に属した。 高遠を手に入れた信玄は、高遠城の拡張改築を家臣に命じ、1547(天文16)年に「鍬立て」を行っている。 この築城に関わったのが山本勘助であると伝えられている。 武田氏による高遠支配は、1582(天正10)年城主仁科五郎盛信が織田軍に敗れるまで35年間続いた。 その後、高遠城主は保科氏、鳥居氏と替わり、1691(元禄4)年からは内藤氏が廃藩まで8代180年間にわたって城主であった。 |
高遠城は、三峰川と藤沢川に削られた河岸段丘上の突端に位置している。
本丸を段丘の突端に置き、東から北にかけて二の丸、さらにその外側に三の丸を巡らした城郭3段の構えを持っていた。 江戸時代、本丸には城主の権威の象徴たる天守はなく、平屋造の御殿や櫓、土蔵などがあった。 |
今回、高遠城のすぐ近くにある的場城まで来たので、折角なので高遠城にも足を延ばしてみることにした。 高遠城へは車で向かったのだが、先ほど大雨が降ったためか大きな虹が眼前に出現していた。 停まって写真を撮りたかったが、駐車スペースが無く、かつ後続車がいたため残念ながらできなかった。 本日の高遠城には自分を除いて2人しか観光客が来ていなかった。 雨のせいもあると思うが、「少ないな〜、人気無いな〜」なんて思いつつ、私は短い時間城内を散策した。 前回来た時は冬であり、草木が枯れていて堀がとても見易かったが、今回は生憎まだ草木が生い茂っており、見難かった。 やはり土の城は冬訪れるのが一番だとつくづく感じた。 |
各郭を隔てる大規模な堀が良好な状態で残っている。 |