興国寺城は、戦国大名北条早雲が初めて城主となった城であり、彼の旗揚げの城としても有名な城である。 早雲は初め伊勢新九郎盛時と称し、駿河守護今川義忠の側室であった妹を頼って今川家に身を寄せていたが、 義忠の急死後、1487(長享元)年今川家の相続争いをまとめた功績によりこの城を与えられ、 その後伊豆国を治めていた堀越公方の内紛に乗じて足利茶々丸を滅ぼし、伊豆国の領主となって韮山城に移り、戦国大名へと成長した。 以後、興国寺城は駿河・甲斐・伊豆の境目に位置していたために、今川・武田・後北条氏の争奪戦の渦中に置かれ、城主が目まぐるしく替わった。 1532〜1555年(天文年間)に今川義元が小規模な構造の城であった興国寺城を普請し、城地を拡大した。 1558〜1570年(永禄年間)には駿河に侵入した後北条氏の城となり、武田信玄の攻撃を退けた。 1571(元亀2)年の武田・後北条氏の同盟成立以降は武田氏の城となり、武田一門穴山梅雪の持城となった。 1582(天正10)年に武田勝頼が滅亡した後、城主の曽根下野守正清が開城して徳川氏の城となり、 家康の関東移封後は豊臣秀吉の武将、中村一氏の家臣河毛重次が城主となった。 関ヶ原の戦い後は、三河3奉行の1人で「どちへんなしの三郎兵衛」と称された、天野三郎兵衛康景が城主となったが、 1607(慶長12)年康景の改易に伴い廃城となった。 |
興国寺城は、愛鷹山の山裾が浮島沼に向かって張り出した低い尾根上に築かれた城である。 浮島沼と谷戸に3方を囲まれ、深田足入と呼ばれる天然の泥田堀に守られていた。 城は土塁と空堀によって区切られた本丸、二の丸、三の丸の3曲輪からなる主郭部と大空堀の北側に付属する外曲輪によって構成されている。 本丸北側土塁は1段高く築かれ、中央部の南面には石垣が積まれ、上面は天主台になっている。 また、西端には西櫓台が設けられている。 |
本丸土塁、北側の大空堀がよく残っている。 本丸北面の土塁は高く、見晴らしが良いため、城全体を見渡して規模を想像することができる。 |