深沢城は、16世紀初頭(戦国時代初期)、今川氏親の命で築かれたといわれる。 武田信玄、北条氏康、今川義元は甲相駿三国同盟を結んでいたが、今川義元の死後、 1568(永禄11)年武田信玄は甲駿同盟を破棄し、駿河に侵攻、今川氏真を敗走させた。 翌1569(永禄12)年、氏真は妻の実家である北条氏を頼り、ここに信玄と氏康・氏政父子の衝突が本格化し、 その主戦場は甲斐・相模・駿河国境に近い深沢城となった。 1570(元亀元)年4月、氏康・氏政父子の兵3万8千が武田方の駒井昌直の守る深沢城を攻め落とすが、 同年6月には逆に武田方が北条方の北条綱成・松田憲秀らが守る深沢城を攻めている。 同年12月、信玄の軍勢は北条綱成らの籠もる深沢城を包囲し、 翌1571(元亀2)年1月3日には史上有名な「深沢城矢文」を城中に送り、 氏政と雌雄を決すべく後詰めを小田原に要請すべきことを勧めている。 しかし信玄が金掘りを使って城を掘り崩し始めたため、綱成は後詰めを待つことなく開城、 同月逆に氏政が武田方の守る深沢城を攻めるという形になった。 以来、深沢城は1582(天正10)年に武田氏が滅びるまで武田氏の駿河における前進拠点として機能した。 その後、1584(天正12)年徳川家康が三宅康貞を置いて北条氏との境目の城として守らせたが、 1590(天正18)年小田原の役で北条氏が滅びると廃城となった。 |
深沢城は、東を抜川、北・西を馬伏川に囲まれた断崖上に築かれた連郭式平城である。 規模は東西約300m、南北約400mであり、北東から南西に向かって本丸、二の丸、三の丸が配されている。 さらに各郭の間には馬出しを設け、防御を固めている。 |
城内は民家や畑になっており、土塁は削られてしまったようだが、その他の遺構は非常に良好な状態であった。 一部道路によって切断されているが、三の丸外に良好な状態の三日月堀が見られた。 非常に堅固な城であっただろうことがひしひしと感じられた。 |