山崎城は、14世紀中頃(南北朝時代初期)、赤松則祐が南朝勢から京を守る拠点として天王山頂に築いたものと推定される。 その後、山崎城は山陽道の京への入口を押さえる要衝として三好元長・一向一揆など諸勢力の間で争奪が繰り返された。 1582(天正10)年、本能寺の変を知った羽柴秀吉は備中・高松城から長駆して京へ迫った。 これに対して明智光秀は山崎城を占拠して待ち構えるという優位に立ちながら、 前日になって淀・勝竜寺両城へ引き下がるという消極策を採った。 これにより、山崎城を占領した秀吉が優勢となり、合戦に敗れた光秀は近江・坂本城へと敗走した。 その後、秀吉は翌1583(天正11)年に摂津・大坂城に移るまで山崎城を居城とした。 |
山崎城は、淀川北方に位置する標高約270mの天王山に築かれた城である。 規模は東西約170m、南北約180mであり、山頂の主郭部とその下方に位置する曲輪群から構成される。 堀はほとんど用いられず、要所には石垣が築かれていたようである。 |
この日、私は狭い急坂を登った先にある宝積寺に駐車して天王山を訪れたのだが、その帰りに急坂で対向車と鉢合せた。
私は仕方無しにバックで急坂を引き返して道を譲ったのだが、エンジンを吹かし過ぎたせいでボンネットから煙が… 幸いにしてすぐに煙は収まり、特に問題無かったのだが、 狭い急坂では登り側の車に道を譲ってもらうべきであるとつくづく思った(単に私の運転が下手なだけか?)。 城については見応えのある遺構は無いが曲輪の形状が良く残っており、石垣や堀も一部残存している。 また、展望台から山崎の戦いの戦場を見下ろすことができる。 またまた話は変わるが、宝積寺で実際は九重なのに名称が五重塔という珍しいものを見かけたので写真を載せておく。 説明によると、昔は五重であったが後世に九重にされたそうである。 |