1336(延元元)年、北畠親房は後醍醐天皇を吉野に迎えるため伊勢に下り、田丸城を築いて南朝の拠点にしたといわれる。 南北両朝による田丸城争奪戦がしばしば繰り返されたが、1392(明徳3)年の南北朝合一後は北畠氏の領有となり、その一族が城主となった。 1568(永禄11)年、織田信長が伊勢平定に乗り出したため、北畠氏は信長の二男・信雄を養子として受け入れることで和睦した。 1575(天正3)年、信雄が北畠氏の家督を相続すると、田丸城に居城を移すことになり、田丸城に居た田丸直昌は岩出城に移った。 信雄は田丸城を大改修し、本丸には3重の天守を設けたが、1580(天正8)年火災により田丸城の大部分が焼失してしまったため、松ヶ島城を築いて居城を移した。 1584(天正12)年、羽柴秀吉との仲が険悪となり、次々に秀吉により自領を落とされていった信雄は和睦し、その条件として南勢は秀吉の領有となった。 秀吉は南勢を蒲生氏郷に与え、氏郷は松ヶ島城に入り、田丸城には氏郷の妹婿・田丸直昌が入った。 1590(天正18)年、小田原征伐の功により氏郷は会津40万石に移封となり、直昌もこれに従ったため、田丸城には稲葉重通が入った。 1615(元和元)年、稲葉氏は摂津中島に転封となり、田丸は大坂の役の功により藤堂高虎が領することになった。 1619(元和5)年、徳川頼宣が紀伊和歌山に転封となると、南勢の中心地であり、交通の要衝であった田丸は頼宣の領有とされた。 頼宣は付家老・久野宗成を田丸城主とし、以後明治維新まで久野氏8代が続いた。 |
田丸城は、外城田川左岸に位置する標高約50mの丘陵上に築かれた城である。 規模は東西約440m、南北約480mであり、丘陵最高所に当たる城西端部に北の丸・本丸・二の丸を連郭式に配し、 そこから緩やかに下っていく東側に三の丸等の曲輪を階段状に配している。 三の丸から本丸に至る虎口は幾度も屈曲させる厳重なものになっている。 本丸と北の丸間の堀切は堀内に高まりが見られ、畝堀状になっている。 |
城の周囲を囲む濠、至る所で見られる石垣等遺構がよく残っている。 特に、三の丸から本丸へ至る虎口はしつこい位に屈曲させられており、厳重な構えであったことが伺われる。 ところで、津城に続き、ここでも「江姫ゆかりの地」という横断幕が掲げられていた。 ゆかりの地の根拠は、「江は幼少期に伊勢上野城主・織田信包の元に預けられていた。 記録にはないが、お伊勢参りの際に従兄に当たる信雄の居城・田丸城に立ち寄ったのではないかと思われる。」 ということらしい。 |