能島城は、村上氏が能島・来島・因島の3家に分立した1419(応永26)年頃に築かれたと考えられる。
その後、能島村上氏は河野氏を主家と仰いでいたが、瀬戸内海中部に勢力を広げ、 水先案内・海上警護・海上輸送等から収入を得てほぼ独立した体制を保持していた。
1543(天文12)年、家督を巡って本家と分家の間で激しい能島攻防戦が繰り広げられた。 雅房の正室の子・吉益と側室の子・隆勝とが争い、隆勝の子・武吉が吉益方を打ち破り、当主となった。
能島村上氏は武吉の代に全盛期を迎え、1555(弘治元)年の厳島の戦い以後は毛利氏につき活躍した。
1583(天正11)年に毛利輝元が豊臣秀吉と和睦した後も武吉は秀吉の命に従わなかった。 このため武吉は、1585(天正13)年の四国征伐後、小早川隆景に攻められ能島城を明け渡した。 この時、廃城になったと考えられる。
その後、能島村上氏は因島村上氏と共に毛利氏に従い、江戸時代を通して御船手組として続いた。
能島城は、瀬戸内海に浮かぶ大島と鵜島に挟まれた2つの小島、能島と鯛崎島を利用して築かれた城である。
能島は東西約200m、南北約240m、標高約30mであり、鯛崎島は東西約50m、南北約100m、標高約20mである。
城は能島を3段に削平して本丸・二の丸・三の丸を配し、さらに鯛崎島に出丸を構えて構成されていた。
また、島の周囲には多くの岩礁ピットが穿たれ、繋船施設が設けられていた。
島の周囲を複雑な潮流が取り巻き、激しい所では最大で約10ノットにもなる天然の要害である。
「能島の花見」のため今日・明日の2日間のみ能島への連絡船が運航される。 そこで白豚は念願の能島上陸を果たすため、今回四国への旅を決行した。
能島への連絡船は9時から16時半まで運航されており、運賃は往復500円であった。
以前来島城を訪れた時は干潮時ではなかったため岩礁ピットが見られなかった。 そこで今回の能島訪城では満潮、干潮となる9時、16時頃の2度訪れた。
本日は大潮ということもあって、写真のように潮の干満によって大きく潮位が変化した。 この海面の低下には非常に驚かされた。 海城は干潮、満潮時の2つの姿を持つということがわかった。
また、岩礁ピットも無事見ることができて満足した。
村上水軍博物館の向かいでやっている潮流体験で能島と鯛崎島を周囲から眺めた。
やはり上陸できなくて残念であり、満足することはできなかった。
できれば来年は能島の花見に合わせて訪れ、上陸を試みたい。