甘崎城は、白村江の戦いで大敗した朝廷が唐軍侵入に備えて671(天智天皇10)年に築いた日本最古の水軍城である。 甘崎城は芸予諸島の中間点という瀬戸内海の要衝に位置していたため、その後も度々歴史の表舞台に登場した。 戦国時代には瀬戸内海に大勢力を誇った村上氏の拠点として利用され、 また、文禄・慶長の役では瀬戸内水軍の出発基地となっている。 1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いにおける功により今治20万石を与えられた藤堂高虎は国分山城に入城した。 同時に甘崎城を支城として取り立て、石垣を用いた近世城郭へと大改修し、弟・藤堂大輔を城主とした。 1608(慶長13)年、甘崎城は高虎の伊勢転封に伴って廃城となった。 さらに翌1609(慶長14)年、幕府が諸大名の水軍力抑制を目的として5百石積以上の大型船の所有を禁止したため、 水軍城としての役目を完全に終えることとなった。 |
甘崎城は、大三島沿岸から東へ160m程の距離にある標高約20mの古城島に築かれた城である。 規模は東西約300m、南北約240mであり、一直線に連なる3つの島から構成される。 陸地部分には土塁や堀はなく削平された曲輪が連なるのみであるが、 水際には桟橋の柱を立てるのに用いたであろう岩礁ピットや高虎が築いたと考えられる石垣が見られる。 特に岩礁ピットは膨大な数が見られ、古くから水軍城として利用されてきたことが伺える。 また、大潮の干潮時には大三島から古城島まで地続きとなり、徒歩で渡ることができる。 |
今回の四国城巡りの旅は能島に上陸することが目的であったが、
なんと能島訪城日が偶然にも大潮の日にあたり、甘崎城に上陸できることが判明した。 当日は16時頃干潮となるため、14時位には渡れるようになるかと思って訪れたが全く地続きになる気配はなかった。 がっかりして立ち去り、16時過ぎに半ば諦め気味でもう一度訪れるとなんと眼前に道ができているではないかっ! どうやら干潮の時間近くになると一気に水位が下がるようである。 甘崎城へは持参した長靴で渡り(普通の運動靴でもOK)、1時間半程見て回った。 膨大な数の岩礁ピットがはっきりと確認でき、さらに石垣まで見られて大満足であった。 ちなみに甘崎城へ繋がる道は18時過ぎ位になると徐々に消えていった。 |