1468(応仁2)年、前関白・一条教房は京都で起こった応仁の乱を避けて、荘園であった土佐幡多荘に下向した。
教房は為松氏を始めとする地元豪族の支持を得て国司として君臨、中村御所を居館とし、中村城を修築して詰め城とした。 教房の子・房家の代にはさらに勢力を拡大し、土佐の七守護一公方と言われるように、土佐の有力大名の中でも別格とされた。 1508(永正5)年、長宗我部氏が本山氏に滅ぼされると、房家はその遺児・国親を保護して長宗我部氏の再興を助けた。 しかし一条氏5代兼定は暗愚であったため、1574(天正2)年、国親の子・元親によって豊後に追放された。 この豊後追放に憤った加久見左衛門は大岐・江口・橋本・山路・伊与木等の各氏と共に中村城を奪取するが、 元親により平定され、中村城には元親の弟・吉良親貞が入った。 1575(天正3)年、兼定は大友宗麟等の援助を得て旧領に復帰すべく元親に対して兵を挙げたが、 四万十川の戦いで敗北、一条氏は滅びた。 その後、1601(慶長6)年に関ヶ原の戦いの功により山内一豊が土佐に入封すると、その弟・康豊が中村城に入った。 1615(元和元)年、一国一城令により廃城になった。 |
中村城は、東に後川、西に四万十川が流れる標高約70mの古城山に築かれた城である。 規模は東西約400m、南北約550mであり、南北に延びる尾根上に分布する五群の城から成り立っていた。 五群の城は北から順に今城、御城、中ノ森、為松城、東城と配置されていた。 |
資料館周辺に土塁等の遺構が割と良く残っており、城跡らしさを感じることができた。 しかし、今城と御城は開発のため消滅しており、資料館周辺以外にはそれらしい遺構は見当たらなかった。 |