1468(応仁2)年、前関白・一条教房は京都で起こった応仁の乱を避けて、荘園であった土佐幡多荘に下向した。
教房は地元豪族を統率して大きな勢力を築き、中村御所を拠点として政務を執った。 その後、一条氏によって京都の文化が流入した中村は「土佐の小京都」と呼ばれる程の繁栄を遂げた。 しかし16世紀半ば頃(戦国時代後期)、一条兼定が当主になると度重なる負け戦や諫言した重臣・土居宗珊を手討にした事により威信を失い、 一条氏は徐々に衰退していった。 1574(天正2)年、兼定は土佐平定を目指す長宗我部元親によって豊後へ追放され、翌1575(天正3)年旧領回復を目指して挙兵したが、 四万十川の戦いで元親に敗れ一条氏は滅びた。 |
中村御所は、中村城から南東に400mの距離にある中村平野中央に築かれた居館である。 規模は東西約110m、南北約150mであり、比高約20mの小丘陵を中心とし、 その周囲の平地部に御殿を設けた方形居館であったと推定される。 |
一条神社がある小丘陵の周囲は完全に宅地化しており、遺構は残っていないようであった。 丘陵上からは北西にある中村城に建つ天守風の郷土資料館が良く見えた。 |