門司城は、1185(元暦2)年、壇ノ浦の戦いに備えて平知盛が家臣・紀井通資に命じて築かせたのが始まりであるという。
1244(寛元2)年、鎌倉幕府は平氏残党鎮圧のため、下総の前国司・藤原親房を豊前代官職に任じた。 親房は1255(建長7)年に門司6ヶ郷を拝領し、門司城を居城として門司氏を名乗った。
その後、門司氏は支城を築き、勢力を拡大するが、南北朝時代には南北2派に分かれて骨肉の争いを繰り広げた。
戦国時代になると、周防・大内氏と豊後・大友氏の2大勢力に挟まれ、激しい争いの渦中に巻き込まれた。 さらに、16世紀中頃に安芸・毛利氏の侵略によって大内氏が滅亡すると、毛利氏と大友氏の間で戦いが繰り広げられた。
1600(慶長5)年の関ヶ原の戦い後に細川忠興が豊前32万石に封ぜられると、長岡勘解由左衛門が城代として置かれたが、 1617(元和3)年に廃城となった。
門司城は、壇ノ浦に臨む標高約175mの古城山に築かれた城である。
規模は東西約130m、南北約120mであり、複数の曲輪を階段状に連ねた典型的な連郭式城郭である。
明治時代に海軍の要塞となったため、遺構はわずかに石垣を残すのみである。
曲輪の形状とわずかな石垣が残るのみであるが、関門海峡を一望でき、景色が良い。
また、城の近くには壇ノ浦合戦壁画等があり、意外に観光客が多かった。 宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘で有名な巌流島もすぐ近くにあるそうな。