加治木城の創築は定かではないが、10世紀頃(平安時代)、帰化人の大蔵氏によって築かれたという。
1006(寛弘3)年、関白藤原頼忠の3男・経平が大隅に流罪となったが、経平は大蔵良長の娘を娶り、 その子・経頼は大蔵氏の家督を継いで姓を加治木氏に改めたという。
1495(明応4)年、加治木久平は主家・島津氏に背き、島津忠昌の攻撃を受けて降伏した。 久平は謝罪して許されたが、父祖伝来の地・加治木から阿多に移された。
加治木城には島津氏の家臣・伊地知重貞が入ったが、しばらくすると重貞も島津氏に対して反乱を起こした。 このため1527(大永7)年、島津忠良は加治木城を攻め、重貞は自害して果て落城した。
その後、加治木城は肝付兼演に与えられたが、1548(天文17)年に至って島津氏に反抗したため、 翌1549(天文18)年島津貴久は伊集院忠朗に命じて加治木城を攻めた。 兼演は敗れ、一時所領を没収されたが、翌年再び加治木を与えられた。
1595(文禄4)年、豊臣秀吉の命により加治木を含む1万石が豊臣直轄領とされたが、 朝鮮の役における島津義弘の軍功によって島津氏に返還された。
1607(慶長12)年、義弘は帖佐平松城から加治木城に移り住む予定であったが、 平穏な時代となったため平地に新たに加治木館を築いて居住した。
加治木城は、東から西に突き出した比高約50mの広大な台地上に築かれた城である。
規模は東西約480m、南北約310mであり、台地は低いが急傾斜となっており、 そこに西の丸・本丸・二の丸等が連郭式に配置されている。
台地上の平坦部は宅地化、本丸・二の丸等の主郭部は藪化しており、 さらに西の丸は養豚場、主水屋敷(松尾城の間違いかもしれない)は墓地となっており、立ち入れる場所は少ない。 遺構としては切岸、堀切等が確認できた。
また、城とは関係ないが、城の南に「蔵王岳」という珍しい形の山が見られたので写真を載せておく。