文禄・慶長の役で、寺沢志摩守広高は総軍監兼御船奉行として総軍の兵站を預かり、
波多三河守改易の後を受けて1595(文禄4)年に唐津一円を領することになった。
1600(慶長5)年関ヶ原の戦いでは徳川方につき天草一円を加増され、12万3千石となった。 1602(慶長7)年広高は唐津城の築城を開始、7年を費やし1608(慶長13)年に完成した。 築城には名護屋城を解体した資材を利用している。 1647(正保4)年寺沢氏が改易されると一時天領となるが、1649(慶安2)年に大久保氏が入封、 以後松平氏、土井氏、水野氏、小笠原氏と入れ替わり、小笠原氏の時に明治維新を迎えた。 |
唐津城は、東を松浦川、北を唐津湾に接する満島山を中心に築かれた連郭式平山城である。 城は本丸・二の丸・三の丸・外曲輪に分かれ、本丸には天守台、二の丸には藩主の住居と藩庁があり、 三の丸にはほとんどの藩士が住み、外曲輪には町人が居住し町奉行所が置かれていた。 天守台には天守は築かれなかったようである。 |
石垣や天守を修築中のようで、本丸のあちこちが立入禁止になっていた。 唐津城では「唐ワンくん」「舞ヅルくん」をマスコットキャラクタとしているようである。 |